『心を揺さぶる広報紙』と『惰性で発行する定期刊行物』の違い
2018/12/23
定期刊行物の罠
定期発行物というのは恐ろしい罠があります。何のために発行するのか、本当に発行したいのかを一から考える暇も機会もなく、当然発行する、白紙で出すわけにはいかない、間に合わない、だから埋め草記事でも、意味のない文章や写真でも適当に入れておいて、体裁整えて発行日に間に合わせなければ・・・ということになるからです。新聞も雑誌も広報紙もテレビも、もしかしたらブログにも、[su_highlight background="#c6ff99"]埋め草、手抜き、妥協が多々あり、それは読者にとって、迷惑であり、興醒めであり、時間の無駄[/su_highlight]になる原稿です。
発行する目的はそもそも何なんだ?
例えば新聞や雑誌の場合、読者はお金を払って購入するのを止めれば済みます。フリーペーパーやブログも読むのを止めてしまえばいいのです。ところが自治体広報紙は送られてくるのです。
なぜその文章と写真を地域住民皆に配らなければならないのか、はっきりとした目的と志があるというのが大前提で、その次に何を取材し書くかを決め、どう伝えるかがあるんだと思います。ですが現実には、各市町村で1人か2人の広報担当者が発行を担当し、何を掲載するか、役場内の原課とそれぞれ調整し、情報を集め、取材に行き、撮影し、原稿を書き、紙面デザインも頑張り・・・を毎月繰り返すことになります。[su_highlight background="#c6ff99"]そもそも何のために発行しているのか改めて考える暇がありません。[/su_highlight]毎号の制作に追われるのです。
くりやまプレスに広報の神髄を見た!
既に廃刊になっていますが、北海道栗山町の福祉専門の広報紙「くりやまプレス」は本物だと思います。そもそも平成5年段階で役場に福祉課が無かったので、町職員が町長を説得して課を作りました。そして[su_highlight background="#c6ff99"]福祉は施策や施設を開始することよりも先に「支え合う人の心を育てることなのではないか」と考え、この広報紙を創刊[/su_highlight]したのです。
「他人様に下の世話をしてもらうなんて恥ずかしい」「家族はどんなに苦しくても親兄弟の介護をやって当たり前」という意識を、必要な福祉サービスを受けることは恥ではない、地域の人皆で支えるべきだという空気にもっていくための広報紙です。[su_highlight background="#c6ff99"]町内にいる寝たきりの人、車椅子生活の人、耳の聞こえない人とその家族に、日頃の暮らし、苦しみ、苦労などを詳しく、詳しく聞き、実名で、隠すことを何一つなく町の広報として配ったのです。[/su_highlight]
体験しないと理解できない。興味の無いことが見えない、聞こえないのが人間
実は私、2週間前に怪我をして、初めて車椅子や松葉杖生活というのも体験したのですが、そうなって初めて道行く人から見下ろされたり、焦らされたりする気分を知りました。階段やつるつるの路面の怖さを知りました。夜中のトイレや便所がいかにきついかも知りました。
[su_highlight background="#c6ff99"]人は自分の体験したことでなければなかなか理解できませんよね。人はそもそも興味のないことは見えない、聞こえない。偉そうな正論や説教を聞かされても全く心に入らない。無理なんです。[/su_highlight]
広報紙が読者の心に刺さるなんてことは相当にハードルが高いことだと思います。だから「くりやまプレス」は当事者の生の声を取材し恐れず掲載したのです。「近所に暮らすおじいちゃんが、もう死のうかと悩んでいる」「ハンデに負けず地域の人に関わりたいと願っている」その事実、当事者の思いに勝るメッセージはないのではないでしょうか。また、町民に福祉とはなんぞやということが伝わった平成16年に廃刊する、その姿勢にも重要な教訓があると思います。目的が達成できたら廃刊するのも一つのあり方として正しいと思います。初志が分からなくなる前に。。。
広報から始まるまちづくり
今、栗山町は福祉の先進地として知られています。くりやまプレスは今、この広報紙を読んで福祉の道を志した民間の福祉施設の社長が復刻させています。実際に広報が町の何かを変えたのです。そこまでいってやっと成果だと思います。「今号はちょっと素敵な広報ができた、良かったー」ではないと思います。自戒を込めて。
長くてすいませんm(_ _)m