アイヌの姿を描く蠣崎波鄕「夷酋列像」を私たちはどう受け止めるべきか
蠣崎波鄕「夷酋列像」をどう受け止めるか。
私の母の母の母の父の父は松前藩15代藩主蠣崎(松前)修廣です。第7代藩主松前資広の5男が蠣崎波鄕です。画人でもある蠣崎波鄕が寛政2年(1790年)に、アイヌの首長12人を描いた夷酋(いしゅう)列像が、フランスのブザンソン美術考古博物館などから北海道博物館にやってくるということで見に行きました。大変賑わっておりました。
当時の大多数の和人にとって、アイヌは、実際は会ったことがない東の野蛮人。ずんぐりむっくりのぎょろ目、和人が描いた絵には鬼にそっくりな姿で描かれることが多かった存在です。
ところが夷酋列像に描かれたアイヌの首長たちはみな八頭身で、ロシアの極彩色のコートやブーツ、和人の作った槍や弓を持ったり、中国の衣装を纏ったり、朝鮮の絨毯の上に座っている、シカを一頭背負っているなど、見る者の心を釘付けにする鮮烈な描かれ方をしています。
なぜ波鄕はそのような描き方をしたのかには諸説あります。なぜ8頭身で国際色豊かな装飾物を持たせているのか。なぜ波鄕は、夷酋列像を持って上洛、光格天皇の叡覧を仰いでいるのか。絵の矛盾を突きつつ、当時の松前藩の事情、開国圧力などを踏まえ、政治的な意味合いを導き出す研究者も少なくありません。そういった学術的観点でこの絵を研究する人もいれば、逆にこの絵を見て直感的にアイヌの荘厳さのようなものを感じ取る人もいます。また、和人に翻弄されるアイヌの姿を意識する人もいます。
個人的には、夷酋列像の評価は、芸術的観点と、歴史的観点を頭の中ではっきり分けて考えるべきだと考えています。モーツアルトの人格がどうであろうと、その生み出した名曲は色あせないのと同じことです。アイヌは自分たちの姿を絵に残さなかった中で、波鄕の描いた絵の鮮烈さのせいか、夷酋列像は多くの模写絵が生まれ、これがアイヌの姿だと多くの人の心に刻み込まれています。絵画、芸術作品としての観点だけでなく、歴史的資料として活躍してしまったわけです。
私たちは100年前の人たちがどのような倫理観を持って暮らしていたかすら十分には知りません。200年以上も前の、しかも文章、絵などがほとんど残っていない当時の蝦夷での出来事には、欠けたピースが多すぎるのです。この絵からほとばしる何かだけで、アイヌの実像を勝手に思い描くのは危険であり、逆に歴史学的な観点だけでこの絵の矛盾を突く「無粋な」側(それはそれで大変興味深いですが)にも私は立ちたくありません。