避難所運営で問われる「心」
2016/02/20
●有珠山噴火!避難所で起きたこととは?
近くの山が噴火!
隣の隣の町にまで町民は避難!
やっとの思いで逃げ込んだ避難先の体育館は寒くて、調理室もない。
トイレの数も限られる。乳幼児も高齢者も皆一緒に2カ月にも及ぶ共同生活。
仕事や家を失い、住み慣れた町を遠く離れた場所で、明日をも知れぬ不安の中で過ごす日々。
指揮系統やルールはない。皆が被災者。
不満や怒りを爆発させる事件が起きたのをきっかけに、皆の心を一つにまとめ避難所運営を指揮した人物がいます。
故小野寺義雄さんです。
私は、昨年9月以降、ずっと全国の、災害時の避難所運営の実態を知るべく情報収集と取材の日々でした。
2000年噴火の有珠山には、何か重要な教訓があるに違いないと思い、同級生で地元紙の記者であるA君にも相談しました。
すると故小野寺義雄さんの娘さんが、遺志を継いで自費出版した「小野寺義雄遺稿集 火の山とともに生きる」があることを知ったのです
添付の記事は、当時の避難所で起きたことを知る方、
そして別の避難所で、同じく、いやもしかするとそれ以上に過酷な経験をされた自治体職員の方の証言を元に作成しました。
その自治体職員は、同じ避難所にいる我が子(未就学)に2週間、一度も声をかけませんでした。
父として自治体職員としての葛藤に思わず私も取材中、うなってしまいました。
災害時に、避難所で、助けられる側になるのか、それとも自分なりに何か皆のために貢献できる人間になるのか。
心構え一つで結果は変わるのではないかと思います。もしよければ一読を。
●東日本大震災。陸前高田市の避難所で起きたこと
東日本大震災で岩手県陸前高田市は最大波高17・6㍍の津波が襲い5㍍の防潮堤を軽々と超えて、市内の住宅の約半分が全半壊。死者・行方不明者が人口の7・2%の1759人と岩手県最大の被害に遭いました。
陸前高田市の戸羽太さんが市長になったのは2011年2月13日。東日本大震災が3月11日ですから、1カ月も経つ前に発生しました。本書は、市長が3・11から約4カ月後の7月までに書き上げた手記です。庁舎の4階に逃げてギリギリ助かった市長ですが、目の前で市職員や市民が流され、水道や携帯も電気も使えない状況の中で救助を待つしかない状況。本人は奥様を津波で亡くされても遺体捜索したり、避難所にいた2人の息子に会いに行かず、最優先で市民の救出やその後の対策に向けて不眠不休で取り組んだ話が綴られています。
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私が実際に取材に行ったのは2015年の秋。ダンプカーが真新しい道路を何台も通り、建っている家は仮設住宅、仮設店舗ばかり。市役所や病院があったエリアや商店街、住宅街のエリアは、見渡す限りの更地でした。被災直後に肉親や家、備蓄などを失った人たちが、学校の体育館で、食材を探し、ルールや役割分担を決めて助け合った話を聞くことができました。5年経った今でも仮設住宅暮らしをされている方々です。
何よりも、防潮堤なんかに頼らずに「地震が来たらとにかく逃げる」、その意識を住民皆が徹底すべきだったと話していたのが心に刺さりました。災害の記憶は風化します。そこで津波の最高到達点を桜の苗木でつないでいく「桜ライン311」という活動も進められていました。被災直後に書かれた本と5年後の今。少しずつでも前に進もうという陸前高田市民の姿がありました。